広島柳生会

正傳新陰流 広島柳生会

剣道の修業の一環として新陰流・制剛流抜刀術を伝承する広島柳生会の日常の稽古風景や出来事を掲載する。

4月、久々の平日稽古会・・・小林君、スーパーGT開幕戦開幕戦に向けての送り出し稽古

令和六年4月2日、4月最初の稽古会は、久々の平日稽古会と成りました。ほぼ四年振りの平日稽古でありました。コロナ禍で自粛しておりました平日の夜稽古でありますが、小林君のスーパーGT開幕戦を来週に控えて、土日何かと忙しく稽古に出向けない彼の為にこの日の稽古会となりました。

土日と違い稽古時間は3時間の確保でありますので地稽古は行わずに、基本稽古、兵法、抜刀を行いました。

一人遣いの様子を観ておりますと、踏込みによる体の運びに今少しの物足りなさを感じ、その点を伝えました。体の運びを意識する事で、明らかに足腰刀の連動に、良き働きが出て来ておりました。体捌きは備わる物で、作る物ではありません。彼の性癖の作ろうとする処は、遣い切ると言う処に心を持って行かねば成りません。備わる事を信じ、只只管に気一杯で遣い切る事を命じました。

木刀による打込みでは、強く振ろうとすると僅かな力みが生じ、左肩が上がります。右手主導に成っていました。言葉を添えて正しました。両手太刀は左が主です。無意識な中での備わりを求めて何度も打込みを繰り返し行わせました。元立が相懸るその手の内を伝えながら…手の内の伝承を続けました。

打ち抜けの体の運びは、何処までも真っ直ぐに・・・この一見単純に見える事が・・・中々に難しい・・・彼の場合は、右にズレて行きます。弟子夫々に癖があります。ある者は左にズレ・・・弟子達一人一人が全く別の人格です。同じようには参りません。夫々に応じた伝承を根気よく行って参ります。

兵法においては、特に直勢中段の位について言葉を交えて伝えました。この何気ない構えの中には、攻めと守りが備わっていなくては成りません。鉄壁の守りを備えながらも瞬時に攻撃に出る事ができねば成りません。攻撃の備わって無い守りは有り得ません。

兵法において何故に打太刀が打って出るか・・・そこを伝えました。何気なく行っている形の中の真の意味をそこから何を学び身に付けるか・・・果てしない師弟同行の修行有るのみです。

活人剣の真の意味も合わせて伝えました。地稽古で自身が打ち取られている意味を理解した様で有ります。知ってからが真の修行です。何時の日にか自身が遣いこなせる様に・・・果てない修行を積み重ねるのみです。

真剣での抜刀では、物心両面の伝承を行いました。伝えられ渡された物を真摯に受け継ぎ、身に付け、次の代に伝えられるように励んで欲しいと切に願っております。

三時間の直伝稽古を行い、送り出し稽古を終了としました。

日記

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3月最後の日曜日稽古会・・・年度末

令和六年3月31日、3月最後の年度末でもあります日曜日稽古会を行いました。山口から永原君と昨日に引続き呉から齋藤君が出向いて参りました。

先ずは一人遣いに精を出す二人でありました。師の前での一人遣いは日常の其れとは別物となります。噴き出す汗を懐の手拭いで拭いながら緊張感を持って取り組んでおりました。昨日あれ程厳しく一人遣いを指導されたにもかかわらず、又しても一人勝手な足捌きを厳しく指摘される齋藤君でありました。この者の思い込みと思しき勝手な言動は、ある種筋金入りであります・・・厳しき𠮟りつけ、正させました。阿呆にも程があります。

基本打込では、各人が課題を確り認識して取り組む事が大切です。只夢遊病者の様にのんべんだらりと繰り返せば良いと言う訳ではありません。確りと求める物を自覚し、それの習得を強く意識して取り組まねばなりません。

永原君は打ち抜けによる体の運びが、まだまだ真っ直ぐとは行きません。左に傾いていきます。一本一本に気を込めて只管体を真っ直ぐに運ぶ事に集中する事です。何気ない事に大切な教えが含まれております。

齋藤君は、打込む深さには少しは気が行くようになって来ましたが、順逆の刃筋がまだまだ不確実です。更なる精度を求めての基本稽古が必要です。

兵法では、二人とも気の充実不足から形を作ろうとしたり、合撃の際に打太刀の勢いに押されて上体がのけ反ったりと戒律に触れる現象が出ておりました。各人確りと自覚し、正す事を命じました。

大切な事は只々基本の中にこそあります。平生の素振りにもっと心を込めて取り組む事を求めるばかりであります。

他の者が伝承を受けている時に他人事と成らぬ態度を求めました。見取り稽古の大切さを再度説きました。稽古に臨む誠実さが欠けぬ様に心させました。

真剣での基本刀法では、まだまだ竹刀、木刀での稽古が活きておりません。真剣での振りが竹刀、木刀で得た物と別物に成っては稽古の意味がありません。一つの物としての修行を求めました。

一気に春と成った昨今、道場内の稽古の陽気を更に高めて参ります。

日記,

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廣川君、春のお彼岸のお参り

令和六年3月20日、春のお彼岸の中日、小林君を伴って廣川君のお墓参りに出向きました。何時もの様に(かとう花店)にて生花を求め、これまた何時もの万屋でお供えを求めました。この日は甘味ではなく、季節の苺でありました。

お墓に到着すると廣川君が今や遅しと待ち構えてくれていました。お墓を清め、お供えをして・・・般若心経を唱えました。積もる話をして・・・後は小林君に譲りました。スーパーGT開幕戦を控えて色々報告をしている様でありました。無論愛娘の近況も確りと伝えた事でありましょう。

御自宅には昨日、会からのお供えを送らせて頂きました。お母様から連絡を頂き、少し電話にて思い出話に花を咲かせました。

この日は、廣川君のお参りをすませると小林君とはこの場でお別れして呉の福永さんのお墓へと向かいました。墓所の管理事務所前で連絡済みの齋藤君が生花を用意して待っておりました。

我々の刀の師匠の墓前に花を供えて、二人でお参りをしました。

日記

毎年思う事ですが、春の彼岸のお参りを済ませると宮島嚴島神社奉納古武道演武大会への準備が佳境を迎えて忙しくなります。準備万端調えて良き大会とするべく知恵と気力を充実させてまいります。

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3月第四土曜日稽古会

令和六年3月23日、第四土曜日稽古会を行いました。先週は海上勤務明けの休暇中とはいえ、不摂生から目に隈をつけ、腑抜けた状態で道場に出向いて来て、逆鱗に触れ途中で稽古の相手をする事を拒否され、片隅で一人素振りに終始した齋藤君が少しは反省した様子で稽古に出向いて参りました。目の隈は綺麗に取れておりました。

しかしながら小生の怒りが全て納まった訳ではなく、稽古に出向く気迫と性根を正すべく、この日は師の位の見守る中での一人遣いに終始させました。正中段から体を進めながら満ちた気で振り被り、足を引き付ける事で面まで振り下ろす・・・この一観単純な動作の中に含まれる刀法の極意を如何に知り、身に付け、兵法や地稽古に活かすか・・・それをトコトン自覚させました。一点一画を疎かにせず、精緻を求めて道場の端から端までを遣い、延々と振り抜かしました。

振り被りにも確りと意識を持たせ、その意味する処と理想とする振り被りを目指して、其処からの足腰の連動から得物を振る・・・振りっぱなしにせず確りと意識を持った振りを目指す事をさせました。

一点一画を疎かにせずに時に言葉を添え、手本を示し、師の前での一人遣いは気が付けば三時間に及んでおりました。

一人遣いの難しさと、大切さを思い知らせる三時間でありました。

日記

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3月第二日曜日稽古会

令和六年3月10日、3月第二日曜日稽古会を行いました。この日は、山口から永原君がそして昨日に引続き齋藤君が出向いて参りました。三月末から海上勤務が始まる齋藤君に幸いにも出会う事が出来て喜ぶ永原君でありました。二人並んで先ずは夫々の思いで一人遣いに励んでおりました。

木刀による打込みでは、一人遣いでの稽古(素振り)を基に実際に元立の木刀目掛けて打込む事を行います。一人遣いで求めた物を実際に打つ事で体現する・・・それがいざ人では無い木刀と言う物目掛けて打込むとなると一人遣いで求めた筈の事柄をサッパリと忘れてしまう・・・力任せに叩けば良い・・・とばかりに強さばかりを求めて打ち込んで来る・・・素振りを活かすどころか、別物として行う・・・戯けにも程がある。

平素から須らく全ての稽古を一つの物として行う事を厳命している。別物として取り組む事は当会では絶対に許さぬ。ましてや全ての修行を務める師の位を無視する物である。何故に師の位の者が全ての元立、打太刀を務めるのか・・・今一度考えを巡らせることを厳命しました。当会が行っているのは、練習ではなく、稽古である。

目に隈を作り、当日稽古に出向いて来た筈の齋藤君は・・・とても稽古には成らず・・・形稽古の途中で小生の逆鱗に触れ、直伝稽古を中止とし、片隅での一人遣いを命じられる始末・・・稽古を付けて貰う気に掛ける者に付ける稽古などない。時間の無駄である。他の者の稽古の邪魔に成らぬ様に命じました。

それでも独り善がりに成りがちで周りが見えない彼は、無神経な音を起てた瞬間に雷を落とされておりました。人としての成長の何と遅い戯け者である事か・・・。

永原君には、稽古で竹刀、木刀、真剣を遣う事の意義を今一度諭しました。夫々の得物でしか出来ぬ稽古がある・・・しかし夫々の稽古が別物と成っては成らぬ・・・所詮は皆一つと成るような修行を求めました。

特に人相手に自由に打合う地稽古では特に形稽古と別物と成らぬ異様に・・・全ての稽古を地稽古に通じる様に・・・永遠のテーマ・・・求める処であります。

日記

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3月第二土曜日稽古会

令和六年3月9日、この日は新年早々の海上勤務に出向いていた齋藤君の稽古始めとなりました。彼が入門して初めてと言って良い遅い稽古始めでありました。

昨年来よりユッタリ振る事から強く振る事を身に付けつつある彼の素振りを観ながら、次への精度を要求しました。次は鋭くであります。そして勢いだけに任せて振っている現状から今少しの意思を乗せての振りを求める事としました。

先ずは強さを求めて振ろうとする事による状態ののけ反り・・・先ずはこれを正す事としました。一人遣いで正せねば形は無論地稽古で出来る筈もありません。将来の為にも近々の課題であります。

木刀による打込み稽古でもはやり力任せの意志の欠如した精度の低い打込み・・・打ちっぱなしと成っておりました。其処に少しずつ意思を持たせる事としました。

木刀を持つ手の備え・・・形・・・そして太刀筋への連動・・・遣るべき事は多々あります。

兵法では、合撃に現在の課題の全てが出ておりました。新陰流で生涯を掛けて求めて行く太刀筋でありますので、当然と言えば当然です。踏込からの足腰刀の連動・・・それも人を相手にしての・・・相手の勢いに立ち向かい、自分自身を充分に遣い切る・・・師弟同行で求めて行くばかりであります。目を逸らせている暇など微塵もありません。

新陰流の教えが色濃く編み込まれている剣道形・・・踏込みは現在の剣道形ではありませんが、摺足での連動を求めて遣い合いました。まだまだ剣道形用木刀に魂が籠っておりません。得物が変わっても即座に気を込められるように・・・振り込んで行くしかありません。

日記

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3月第一日曜日稽古会

令和六年3月3日、いよいよ年度の最終月となりました。この日は大阪より野原君が激務の間隙を縫って出向いて参りました。彼に取っては新年が始まって早くも三か月目であますが、この日が広島での稽古始めでありました。

定時正午に道場に到着し、挨拶もそこそこに先ずは一人遣いに精を出しておりました。平素はマンションの敷地内での一人稽古しか儘ならぬようですので、床板の感触を楽しむ様に黙々と道場の端から端までを遣って振り込んでおりました。

余人を交えずの直伝稽古でありますので、気に成る太刀筋の腕の捌きに一言添えて置きました。悪癖と成らぬ前に修正を加えて置きました。一人では判らぬ事があります。そこを逃さず正しておきます。

坐礼の際に嚴島神社での新年のお祓いの際にもとめていた破魔矢とお年賀を手渡し、言葉を添えておきました。

宮島嚴島神社奉納古武道演武大会まで丁度三か月です。気を引き締めて稽古に励み、大会に向けて気を高めて行って欲しいと願っております。

木刀による打込み稽古では、打込みの際に締めではなく握り込む癖がまだまだ出ておりました。鋭く軽やかな打込みを求めました。何本か軽やかな音を発しておりました。素振りでは出来ている事が、実際に打つと言う事に成ると思わず握ると言うリキミがでてします。それは人に向かうと更に強くなります。そこを克服するのが稽古です。人を相手にする稽古でしか克服は出来ません。

兵法では、一瞬頭が白く成り、呆然と立ち尽くす事がありました。彼は之までにも本番でも何度かこの様な状態に陥っておりました。自身で克服するしか術はありません。単なる手順を追っている訳では決してありませんので形稽古の中ではあり得る事ですが、そこからリカバリーするのも自身の責任であります。気力であります。何時までも打太刀に何とかして貰おうとしては、一人前とは言えません。そろそろ一人前と成って貰わねば困ります。

伝授の途中の剣道形もこの日で太刀七本を全て伝授しました。此処からが真の剣道形の稽古と成ります。一日一回の稽古を数多く重ねて参ります。数を打たねば物には成りません。

真剣での抜刀を抜き合い、最後に防具を着けての地稽古を行いました。何時もより長い時間と成りました地稽古では、彼の現在の問題点が如実に現れました。人を相手に打ち合いと成ると・・・打ではなく叩きと成って仕舞います。それは手の内の操作は無論ですが、人から一本を取ると言う事への志の低さが原因です。

真の一本とはどの様な事と捉えるのか・・・我をわすれて無神経に竹刀を振り回し、其処ら辺りを叩きに来る彼が真に理解するには、まだまだ可成りの時間を要する事でしょう。完膚なきまでに打ち取られ、稽古後の言葉としても(何たる素性の悪い剣か)(まさか君は他所に稽古に行っているのではなかろうな)と言葉を投げつけられ・・・呆然とする彼でありました。無論小生の目を盗んで他所に行っている筈もありませんが・・・万一そうであれば即刻破門は明らかな事であります。
平素の教えを無視している筈でもなく、地稽古と成ると別物として遣ってしまう・・・人を相手にする難しさから我を忘れてします・・・克服すべき近々の課題でありますし、打つと言う事に対する自覚の欠如であります。今一度今までの教えを反芻し、打つと言う事は同様な事かを確りと決定(けつじょう)せねばなりません。そして師相手に表現するしか彼に残された道はありません。

日記

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