広島柳生会

正傳新陰流 広島柳生会

剣道の修業の一環として新陰流・制剛流抜刀術を伝承する広島柳生会の日常の稽古風景や出来事を掲載する。

10月第二日曜日稽古会

令和六年10月13日、10月第二日曜日稽古会を行いました。この日は永原、小林君の両名が出向いて参りました。特に小林君は、シーズンが始まってから数える程しか稽古に出向いて来る事が難しくなってますので、久々の道場の床板の感触を先ずは、一人遣いで確かめながら楽しんでおりました。二人の木刀での一人遣いを観ながらつくづく感じたのは、10年以上に及ぶ二人の精進からから来る上達具合でありました。木刀での人を相手にせぬ場合での振りは、ほぼ目録(免許皆伝)の位に来ております。先ずは第一段階突破と言った処でありましょうか。

此処に至ってやっと人を相手の修行に入れると言う事であります。無論これまでも兵法として地稽古としてやらせてはいますが、所詮一人遣いが出来ねば、人を相手には真には出来ません。一人遣いである程度出来るようになっても人を相手にすると・・・これが剣の修行の難しい処です。

木刀相手の単なる打込でさえ・・・僅かな力みが入って仕舞う・・・先ずは、物に向かってそして・・・人に対して・・・之からも遥か遠い修行の道を師弟同行で歩んで行くしかありませ。師弟同行・・・此処を外しては剣の修行足り得ません。

木刀での打込みでは、やはり一日の長のある永原君の打込の方が、軽やかさがあります。其処の処を見取り稽古をしている筈の小林君が感じ取っているか・・・。剣の修行には、感性が大切です。

そんな永原君の打込ですが、時として右肩が上がって仕舞う・・・体の捌きは、ブレが無くなってきてますが、時として右手主導に成っている・・・両手太刀は、左手主導です・・・此処を外しては、真の剣捌きには成り得ません。二人共の課題であります。一人遣いで出来ていても物に向かうと思わぬ事が出て参ります。其れなりの行でしか実感出来ぬ処です。実感したら・・・身に付く迄、行を繰り返し、正すばかりであります。

その後の兵法では、師相手に遣ってみなければ判らぬ処が出現し・・・困惑しながらも真摯に取組んで行く二人でありました。文(あや)の斬り一つ取っても、単なる所作事で行うには、何の苦労も難しさもありませんが・・・これが地稽古に繋がるとなると・・・理解する事も難しい二人でありました。その難しさを真に知り・・・身につけるべく励み、先ずは兵法(形)で使いこなし・・・遂には地稽古に活かせる様に成る・・・何たる楽しみでありましょうか・・・実際に地稽古で師に遣われ、打ち取られている自身があります・・・身に付ける座標は確りと二人には観えている筈です。

剣道形では仕太刀として確りと打つべき処まで打ち切る・・・これが人相手にすると出来てない二人であります。木刀で打太刀に当てて仕舞わないかと言う恐れが、その働きを躊躇させて仕舞います。人を相手にする難しさと得物の違いを別物として仕舞っている・・・全て一つして遣わねば修行と成り得ません。一見別物と観えて仕舞う修行が、すべて一つであり、繋がっていると真に知らねば成りませんし、信じねばなりません。

真剣での抜刀では、母刀に込められている真の意味と精度を伝え、実践を求めました。単純に見える所作事をアバウトな感覚でやり過ごすと単なる準備運動と堕して仕舞います。そんな程度の認識では、神聖な稽古の場で行う意味がない。水走・・・その真の意味を知り、身に付けるべく取組む・・・人に対しても・・・。

稽古の締めは、二人を相手の防具を着けての地稽古であります。無論、先ずは基本の打込、切り返しを行ってからであります。全ての稽古の前に先ずは基本稽古を行う・・・。

面打ち、小手打ち共に夫々に、打ちは強くなって来ております。強くなるのは良いが・・・そこに力みが入るのは駄目です。その感覚を常に感じて打込みに臨む事です。

待ちに成らず、打って行こうする気は、確りと持っている二人でありました。

打ちを出す前に攻めを出し、崩さねば打ちに至らぬ・・・返り打ちをしこたま食らいながら・・・打たれて覚える稽古に没頭している二人でありました。

日記

広島武徳会