広島柳生会

正傳新陰流 広島柳生会

剣道の修業の一環として新陰流・制剛流抜刀術を伝承する広島柳生会の日常の稽古風景や出来事を掲載する。

1月第三日曜日稽古会

令和七年1月19日、新年第三日曜日稽古会を行いました。この日は皆より少し遅く成りましたが、小林君の稽古始めでもありました。三か月余りの海上勤務で身心共に緩んでしまった齋藤君も新年早々の海上勤務をひかえて一月最後の稽古に出向いて参りました。

一月最初と最後に成る直弟子達に一人遣いの段階で少しの言葉と手本を示して直伝稽古を施しました。形に囚われ気味の小林君には、根幹となる踏込みに言及しました。此処に気が籠らず、正しく心地よく踏めねば、足腰刀の連動など夢のまた夢であります。足心で気を込めて踏み、心地良い踏込みの出来た時の足腰の備えの感触を忘れぬ事を求めました。足心と膝との関係・・・大切な処であります。所詮剣はその場打ち、斬りは有り得ません。体を正しく前に運び・・・打ち、斬る・・・此処を忘れて剣は有り得ません。途方もない時間を懸けて、身に染み込ませるしか術は有りません。

齋藤君の振る際の得物の余分な動きは、雷刀から躊躇なく振り下ろす事を中段からの振り被り、振り下ろしの際にも求めました。真の一拍子の振りを求めて、これまた途方もない時間を積み重ねるしかありません。余興の類に心を奪われている者達には到底判らぬ真の修行が求められます。それは師の前でこそ可能であります。

坐礼を行い、木刀での基本打込を行いました。稽古始めと成る小林君の打ちは、今年初めての師の構える木刀への打込を強く意識した力みのある硬い打ちでありました。力みが勝っていいる為にその打ちは前・・・ではなく下へと向いておりました。その様な打ちの時には力みの為に左肩が上がっている・・・理解していても実践出来る迄、何度も師の構える木刀に向かい、精魂尽きるまで打込みを何度も繰り返すしか術は有りません。生涯を掛けて継続して行くしか真には、身に付きません。

続いて行った齋藤君の打込・・・一人遣いで出る拙い得物の操作は、打込みで出ない訳もなく・・・気を込めたつもりで勢いよく打とうとする度に・・・垂れ下がる剣先・・・一つの正しい遣い方を身に付ける事の何と難しい事か・・・振り被りが正しくなければ、それからの振り下ろし、体捌きが調う訳もなく・・・この一見単調と思える稽古の中に面白さ、興味深さを見いだせない者には、剣の世界に入って来る資格が無いと言う事であります。何処までも諦めずに求めて遣り抜くしか術はありません。

兵法に入ると、真の気の入り方ではなく、僅かな力みが色々な減少として顔を覗かせて来ます。小林君の左肩の上がり・・・所詮、左脇の締めが出来ていない・・・脇のどの部分を締めるか・・・伝授してますので、後は自得するのみ。手本を如何に写し取るか・・・我流では全く使い物には成りません。

齋藤君の斜太刀における体軸の歪み・・・一人遣いでは少しは出来てきたことが、打太刀相手には・・・出来ない・・・それが剣の修行の難しい処であります。所詮人相手に出来ねば剣とは言えません・・・あくまでも師相手に無意識で遣える様にならねば・・・果てしない修行があるばかりであります。

剣道形においては、新陰流との使い分けに四苦八苦する二人でありました。打太刀(師の位)相手に先に備える新陰流・・・反対に打太刀に連れ従う剣道形・・・状況に応じて使い分けるのは、剣の根かであります。約束稽古において混同は許されません。所詮、身に付いていないからであります。ゴチャゴチャ考えずに身に付ける事に集中するばかりであります。

真剣での抜刀では、時として痺れる様な刃音をたてる事が出来つつある二人であります。しかし・・・続かない。自身の中で出来つつある事を如何に常に出来るようにするか・・・これまた果てない修行が必要です。一人遣いで出来なければ、人相手に出来る筈も無い・・・。愛刀との日々の修行の重ねるばかりであります。

内容を少し掘り下げ、避けては通れぬ根幹となる稽古に終始したこの日の稽古でありました。少し寒さの緩んだ道場で心地よい汗を流しながら、命の洗濯をした師弟で有りました。

日記

広島武徳会