広島柳生会

正傳新陰流 広島柳生会

剣道の修業の一環として新陰流・制剛流抜刀術を伝承する広島柳生会の日常の稽古風景や出来事を掲載する。

9月最後の日曜日稽古会

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9月26日

令和三年9月26日、この日がこの場所をお借りしての取り敢えずの締めの稽古会でありました。コロナ感染者数の全国的な減少を観て、政府は規制の解除を検討している様で有り、おそらく広島の緊急事態宣言も解除され、10月から五月が丘の道場も使用出来る見通しと成りました。

稽古場所を提供頂いた事に感謝しながらの締めの稽古会を行いました。稽古に先立ち、皆での感謝の念を共にし、段位に相応しい稽古、日々の立ち居振る舞いについて今一度自覚を申しつけました。時としていまだに、何気なく本人としては悪気もなく、しかし看過しがたい無作法を振りまくこの三人衆に更なる自覚を促しました。剣も日々の礼法、礼儀も所詮自得しかありません。廣川君自慢の一門たれと今一度、強い自覚を求めました。

木刀による基本打込から稽古を始めました。竹刀による打込みから木刀による打込みを始めて・・・衝撃により砕けた木刀も皆数本目となり、夫々が自身の打込みを身に付けつつある昨今であります。打込みひとつを取っても一人一人の個性特徴が出て来て夫々に趣が違います。元立も木刀で受け、相懸けを行いながら手の内の感触を持って、その質の向上を求めました。特徴は夫々あっても力みを取り去る事が肝要です。気を込めるつもりが、力みを込めるに成っては、本末転倒です。軽やかな心地よい打込み音を求めました。

本伝の太刀では、根幹と成る太刀にその初太刀に今少し気を込めるその自覚を求めました。出来不出来ではなく、初太刀こそ全てと言って良い気迫で有ります。其処のところが、まだまだ甘い三人衆であります。知った事を中々実践出来ない・・・皆が通る道ではあります。

真剣を遣っての基本刀法では、そろそろ各人各様に得手不得手が出て来ておりました。すこしこなれて来た証でもあります。今後が楽しみであります。

稽古の締めは、無論防具を着けての地稽古であります。地稽古と言っても最初は、打込み、切り返しからであります。ここでも基本打込を我が身で受けながらその打ちの強さ、鋭さが各人各様に出て来ている事を実感しながら、少しほくそ笑む師の位でありました。後は、之を如何に地稽古で活かすかでありますが・・・これが、実は難しい。地稽古と成ってからは、その難しさをトコトン味わって貰いました。特に自身では気が付かぬうちに発した一言の重みを思い知らされた小林君でありました。見えぬ打ちも、僅かに見える打ちも、何となく見えてる打ちも・・・かわす事も出来ず、打たれるしかない・・・自身の発した不遜な言葉の意味を少しは身を以て味わった小林君でありました。

最後の坐礼で、本日の地稽古の真意を諭され・・・やっと自身の何気ない一言が、如何に剣の世界では不躾な一言で有ったかをやっと知り・・・うな垂れる小林君でありました。本日の彼への地稽古は、弟子を導く引き立て稽古ではなく、一種のお仕置き稽古でありました。さほどに剣の世界では、知らぬでは済まされぬ事があります。身を以て味わった自身の不始末を二度と忘れるでない・・・弟子で有り続けたいならば・・・と、諭す廣川君の声が道場に響き渡った本日の稽古会でありました。

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