広島柳生会

正傳新陰流 広島柳生会

剣道の修業の一環として新陰流・制剛流抜刀術を伝承する広島柳生会の日常の稽古風景や出来事を掲載する。

八月最初の土曜稽古会

八月最初の稽古会を行いました。久しぶりの夏らしい雰囲気の気候では有りましたが、広島は今だ梅雨明けではありません。少しばかり地球がおかしくなっていると感じざるを得ません。


まずはスッキリとした汗になるように、一週間の激務で身体に蓄積した浮世の無用な沈殿物を流し去るべく負荷を懸けた基本稽古(打込み・・・・決して自由な打ち合いではありません。素人さんにはわからないかもしれませんが。)を行いました。行うべく項目に拘泥せず各人の現状の克服すべき課題を重点的に行いました。苦しくなってくると縮む者にはその伸びやかな感覚を自覚できるまで、大してありもしない腕力に頼る者にはその腕力が失われるまで疲れさせ、あるいはその元凶である右腕に容赦なく一撃を食らわせ、その悪癖の薄れる感覚を得るまで続けさせました。時間的には各人ほぼ同じで有りますが行う項目は勿論出来ている度合いにより違いが有るのは当然で有ります。有る程度出来るものは次々と進みますが出来ない者に同じ事をさせる訳には参りません。


兵法におきましては三学、九箇(とりあげ)、したからのみを行いました。前回も指摘したように一人遣いで出来る事が形として打太刀相手に打つ場合に愚の如く同じ過ちを犯します。合撃ならばいざ知らず、一人遣いではぎこち無いながらも似たような事が出来るのにそれが出来ないのは、出鱈目な無意識、所謂無頓着に行っているからです。出来ない事が出来る様になるにはそこに意識的に気を込めるしかありません。強烈に意識を集中するのです。そこそこに出来る様になった時点で今度は無意識に行えるようにするのです。本来形稽古は同じ物はその日一本しか行わない、所謂一本勝負の気持ちで行うものです。何本も愚の如く行ったり途中でやり直すものでは有りません。それだけに常に真剣勝負の如く行わねば真の上達など有り得ません。一週間に一度程度では絶対数が足りません。積重ねるには有る程度の頻度が絶対条件です。


抜刀は居合を行いました。特に納刀は一年以上を経過しましたので今一つ上のものを求めました。手の姿に手応えを感じた者は下りてくる刀がユッタリとしながらも淀みが無くなり、それに連れての怖さも薄れてきている様で有りました。足捌きに無駄無理の無い処も求めました。ある程度の手順は理解してきましたので兵法の理に合致した足捌きに入って貰います。最初は剣舞で致し方有りませんが勿論何時までもそれでは剣を修行しているとは言えません。真の抜刀、剣道を目指してもらいます。


本日も基本稽古にて一汗流した後の兵法の稽古はサッパリとした心地良い汗を流す事が出来ました。何故か一人本来の自身の素顔に照れながら稽古に精を出す者がおりましたが、その事は道場内の会員のみしるところであります。あすも引続き日曜稽古を行います。