広島柳生会

正傳新陰流 広島柳生会

剣道の修業の一環として新陰流・制剛流抜刀術を伝承する広島柳生会の日常の稽古風景や出来事を掲載する。

11月連休合宿稽古会

昨日に引き続き11月連休の合宿稽古会を行いました。昨日から宿泊の野原君はもとより博多から土居君が出向いて参り、賑やかな稽古会と成りました。土居君は勿論防具持参であります。機会ある度に彼とは剣道形及び地稽古は必ず行う積もりであります。勿論その稽古は参加会員に見取り稽古をさせる為でもあります。見られる方も他の会員に見られる中で自身の剣を正直に披露し、その感想を貰うものでもあります。初学と言えども時として心に響く言葉を発せられ感心する事が多々有ります。真に求めている者の言は侮れません。先ずは道場に出向いた真っ白な気持ちで剣道形を打ちました。一本目からなかなか気のこもった良き発声で有りました。しかし三本目の突きは気が先走りし過ぎ剣がぶれてしまいました。ここは少し気を溜めねば成らぬ所でありましょう。当初から比べ仕太刀は良くなっております。後は理合とそれに伴った体捌きの精密さであります。六段を目指す者としては充分で有りますがまだまだ上を求めて行って欲しいものです。打太刀もかなり手の内に柔らかさが出てきましたが如何しても無意味な身掛りが顔を覗かせます。名古屋の新陰流の使い手を気取る者が発した(剣道には身掛りが無い)と言う戯言を気にしているのかもしれません。剣のけの字も判らぬ者の言などにとらわれるなど笑止です。それと着装特に袴の着付けが頂けません。後ろ下がりに成っています。場が変わった事による確認不足かもしれませんが常に着装には気を配りたいものです。基本稽古は昨日の反省からあまり時間を取りすぎぬ様に気を配りましたが勿論手を抜いた分けでは有りません。しっかり練って貰いました。所詮は基本が出来ねば形稽古など無意味でありますから。土居君の正面打ちのぶれは足の怪我の思わぬ影響で有りましょう。出た物は仕方有りませんので正すのみです。しっかり意識して欲しいと思います。二人には元立も行ってもらいました。合懸け一つ取っても特に足捌きが様にはなりませんし、合懸けさせる打ちそのものが稚拙すぎます。暫く懸かり手に我慢してもらい元立の修行を行ってもらいます。好美君は課題の引きからの返しの体の乗りに手応えを摑みつつあるようです。頑固者がやっと理解してくれたようです。島田さんの順逆の腕操作は今少し時間が懸かりそうですが手遅れにならぬ様に常に叱咤激励するのみです。


兵法は折角の機会ですので昨日同様に打太刀を二人に三学、八勢にて練って貰う事としました。使太刀もてぐすね引いて待ち構えておりましたので丁度良いと判断しました。二人とも共に間合に苦しみ打ちそのものが不十分であり未熟そのものでありました。これでは使太刀も迷惑千万で稽古にはならないと感じましたが時間を経て行くにしたがい何とかおり合って参りました。最後にはそれぞれのパートナーが定まり互いにそれなりに遣い安そうに遣っておりました。真剣に時間を懸け取り組めば其れなりには成って来る物で有るようです。しかし経験の差は有る物の体力腕力の無い女性の遣い方がより自然で有る事は皆心せねば成らぬ事でありましょう。体力腕力に頼った遣い方は所詮先が無く進歩は有りません。折角剣を志したのですから何処までも上達してゆく不老の剣で有りたいものです。


最後に土居君との地稽古で納めの稽古としました。立ち上がりからの打ち其の物は当てではなく何とか打とうとして来ておりますが、折角形稽古をしてきておりますのにやはり地稽古となると形と様子が違ってきます。その端的なのが発声です。形では折角良くなりつつある発声が地稽古となると一種怒声又は叫び声になってしまっておりました。地稽古の相手をする時には感情を害されぬように心を整えて当たりますので余り気にする事も有りませんでしたがビデオに納めた様子を改めて見てみますと不愉快極まりない声でありました。醜い声で有ります。あれでは上手相手に真の一本が取れるはずもありません。猛省を要する処であります。今一度地稽古とは何ぞや、真の一本とはどの様な物であるかをよくよく検証するべき時期と思われます。今後の彼の真摯な態度を強く望むものであります。


今回はある種厳しい指摘が多くなりましたが稽古会としては充実した良きものであったと思います。取り組みようによっては今後の飛躍を期待できる材料を各人が多々得る事が出来たのではないでしょうか。延春先生の様に褒めて導く事の大切さは勿論知ってはおりますが時には冷水を浴びせる事も大切であると信じております。