広島柳生会

正傳新陰流 広島柳生会

剣道の修業の一環として新陰流・制剛流抜刀術を伝承する広島柳生会の日常の稽古風景や出来事を掲載する。

12月今年最後の博多定例稽古会

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今年最後の博多定例稽古会を行いました。市原さんにとりましては先週の広島への出稽古に引き続いての二週連続稽古会と成りました。昨年の10月に入会されて、月に一度の博多定例稽古会と広島への出稽古を着実に実行されて本日に至りました事は真に幸いな事でありました。入会されるまでに可也の遠回りを経験されておりましたので少々心配が無いでは有りませんでしたが無事に本日を迎えられた事は喜び以外の何物でも有りません。剣の修行は自身の日常のペースの中で遣れる事を着実に実行して行くしか方法は有りません。出来ることを弛まず遣りぬくしか有りません。それも遣る前から(遣る遣る)等と言葉に出す事無く、唯黙々とこなして行くしか方法は無いようで有ります。(自分は遣ると決めた事は遣り通すのです)等と遣る前から大きな事を言う御仁に限って途中で投げ出して仕舞うのは過去の除名にした者の例を出すまでも無く真理で有る様であります。今後もただ黙々と遣るべき修行に真摯に取り組んで頂きたいと願っております。


兵法は之までに伝授しました三学(とりあげ)、八勢、中段(九本目まで)と遣い合いました。三学は先週注意致しました二の斬りの三本の精度が上がっておりました。之もまた日常の一人稽古の工夫の賜物でありましょう。疾雷刀はいまだ如何しても体が沈んでしまう処が有ります。これは中々一人稽古ではこなし切れない処で有る様ですが、打った時に体が崩れるようでは所詮剣とは言えませんので諦める事無く自得の道を歩んで欲しいと思います。打つとは斬るに繋がる打つで無ければ意味が有りません。単に当たるでは何にも成りません。中段に成りますと途端に動きに迷いが出てまいります。いまだ手順がアヤフヤで有るようですが、この程度の本数を覚えきれずに如何しますか!DVDも渡してあるのですから平素の工夫の仕様がある筈です。何時までも照れ笑いで自身を誤魔化す様では駄目です。もっと自身と向かい合い対決して頂きたい。


手本と成るべき先輩も時として後ろ足で相懸けをしてみたりと少しお疲れが出ているようで有りましたが、自身で気が付いた処は僅かなる救いでは有りました。つけ打ちや七本目の三連打の打ち留めが如何しても上体の腕力で遣って仕舞いますので後れてしまいます。剣はあくまで体捌きです。足捌きによる体捌きを何処までも追い求めて行って欲しいと思います。(力で留めなければ留まらないのでは)などとの戯言が未だ頭の片隅に有るのであればスッカリと捨て去って欲しい物であります。最早世迷言を言っている暇など有りません。真理を求めて着実に上達して行って貰いたいと願っております。


最後に抜刀を皆で時間の許すまで抜きあいました。今年最後の博多の稽古会で有りましたが、やはり稽古は嘘をつきません。真剣に皆が刀を振る様子を見守っていますと確かにこの一年の始まりと比べますと夫々が夫々のペースで着実に上達している事を感じざるを得ませんでした。先輩の斬り下しは当初兼次とは余りに趣の違う南北朝の名刀を遣う事に四苦八苦しておりましたが、見事なる羽音を発てるまでに遣いこなす様に成っておりました。市原さんの残心は一年前と比べ様が無いほどの位を備えつつ有ります。之などは若者には中々表現し難い処であります。年齢を重ね無ければ出来ない事が有ると言う典型的な一つで有りましょう。最後に今年最後の博多稽古会の締めと致しまして(気働き)に付いての話を致しまして本日の終了と致しました。