広島柳生会

正傳新陰流 広島柳生会

剣道の修業の一環として新陰流・制剛流抜刀術を伝承する広島柳生会の日常の稽古風景や出来事を掲載する。

二月博多定例稽古会

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二月の博多定例稽古会を行いました。先週からの寒波により九州道の一部区間と福岡都市高の全線通行が中止となり、可也の時間を要した道中となりました。このような体験は博多の稽古会を始めてから二度目ではなかったかと思います。幸いに今回の開始時間が道場の都合上三時からとなっておりましたので開始時間に遅れる事無く到着することが出来ました。先月目の手術をした市原さんも今回から稽古復帰では有りますが、いまだ激しい運動は医師から禁止されておりますので一人遣いの延長での稽古としました。


踏込みは一切遣わず、すり足での稽古としました。無論一人遣いとは言え基本稽古から兵法、抜刀と移行する平素の稽古手順を踏襲させました。ユッタリと体全体の働きを細部にわたり自身で感じながら繰り返す事を求めました。踏込みで行っていたときに少しおざなりになっていた処が確認出来ましたので其処のところを何度も繰り返し行わせました。特に腕を何処の位置で伸ばせば良いかと言う点につきましては新鮮な驚きを感じていた様であります。なかなか自覚出来ていなかった処が今回思わぬ処で感じる事が出来まして幸いでありました。


順が如何しても縮こまってしまうところもユッタリ行えば気が付かない訳には参りません。自身の体で有りながら思い通りに行かぬもどかしさを感じながら悪戦苦闘しながらも徐々に体に染み込んで行く様は見ていて愉快で有りました。ご自身はなおさらで有ったと思います。


兵法はおそらく部分部分に拘り、一本の流れをおざなりにしてきた様子が垣間見れましたので兎に角全体の流れを大切にする事を求めました。勢法は五本なら五本、十四本なら十四本をひとつとして作られた理が有るのですから全体をひとつとして認識する事が大切であります。兎に角間違おうが不味かろうが遣り通す事が第一であります。その後反省として気になる個別があれば部分的に抽出して検証し、その一勢法のみを遣ってみる事は又必要でありますがあくまで遣り通した後の事であります。剣の本質が判らぬかつての養子さんが部分部分で稽古(練習)を中断して言葉を投げかける場面に激しい叱責をした事を思い出しました。そんな事をしても稽古には成り得ません。剣の稽古とは何ぞやと常に自身に問いかける事が大切です。剣に練習はありません。稽古あるのみです。


術後の体調を観ながらの稽古ではありましたが、一人遣いの稽古復帰としましては内容も時間も充分なものであったと思います。帰広の途に付きました頃には都市高、九州道ともに通行止めは解除されており帰りはスムーズな道中でありました。