広島柳生会

正傳新陰流 広島柳生会

剣道の修業の一環として新陰流・制剛流抜刀術を伝承する広島柳生会の日常の稽古風景や出来事を掲載する。

令和元年納の稽古二日目

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令和元年納の稽古、二日目・・・野原君への防具手渡しの儀。

令和元年12月22日、二日目の稽古納めを行いました。この日は、野原君の為の稽古納めでありました。若者二人も露払いとして参加しておりました。野原君に対する防具手渡しの儀も行いました。これで直弟子全てに防具を手渡す事が出来ました。

久々の道場の空気を心地よさそうに身体一杯に吸い込みながら先ずは一人遣いに精を出す野原君でありました。少し痛めていた肩の調子もほぼ回復した様でありました。

廣川君の前に供えられた防具一式を前に皆で今年最後の稽古始の座礼を行いました。長呼気丹田呼吸に集中し、静かに一礼し、稽古に入りました。

今年最後の木刀による打込みを熱く行い、木刀どうしを打ち合わせる感触を楽しみました。冷え込んでる道場で全員が息を切らせながら、何時しか全身に熱気が迸り、汗が噴き出しておりました。

本伝の太刀を愛おしむ様に遣い合いました。その時その時の出来不出来に一喜一憂する必要は全く有りません。只〃合気と成り、彼我一体を求めて夢中になって遣い合うばかりであります。

稽古の締めは、防具を着けての打込みそして地稽古を行いました。初めて自身の防具を身に付けての野原君、最初の稽古で有りました。

先ず打込みでは、足腰の連動は無論でありますが、防具による打込みの為の踏込みによる一体感を求めました。何事も遣い分けが必要であります。形稽古で身に付けた事の応用を求めました。

形稽古を地稽古に活かす事を求めしたが、一朝一夕にできる事ではありません。只々ここぞと思う時に打込んでくることを求めました。無論、最初から機会を捉えて一本を取る事は出来ませんが、自身から打込むことが肝要であります。待っていては打込まれるばかりであります。

打てども打てども打ち取られ、捌かれ、返され・・・摺り上げられ・・・そして合撃を喰らい・・・成す術なく打たれ続け、しかし打って行った自身の竹刀が落とされ、その瞬間に面を打たれている・・・合撃の実際の一撃を喰らい・・・痛く感激している野原君でありました。

平生稽古している形稽古の中の技を地稽古で味わう事の感動を感じている彼でありました。感動を共有出来る者には(共有できる者にしか)いつしか自身が感動した技が身につく。之が剣の真理であります。

観取り稽古をしている筈の弟弟子達にはその感動を感じる事が出来なかった様であります観取りではなく彼らの行っているのは、単なる見取りであったようです。心の眼が開かれていなければ、所詮感動は生まれません

常に新鮮な感覚を持って観る・・・見るだけでは、時間の無駄であります。

形稽古を地稽古に活かす・・・一体の物とするなど夢のまた夢であります。

今年最後に良き感動を味わった者も有れば・・・未熟さを曝け出した者も有りました。

しかしながら新年も更なる真の上達を目指してメゲズに精進あるのみであります。

日記