広島柳生会

正傳新陰流 広島柳生会

剣道の修業の一環として新陰流・制剛流抜刀術を伝承する広島柳生会の日常の稽古風景や出来事を掲載する。

2月最後の稽古会

f:id:heike10:20220228004757j:plain

2月27日

令和四年2月27日、2月最後の稽古会を行いました。この日は、予定通り小林君との直伝稽古となりました。春の訪れを感じさせる穏やかな日差しの中での稽古会でありました。

場を調え、早速一人遣いに精を出す小林君に直伝稽古ならではの場に即応しての言葉と手本を示しました。彼の近々の求める処は、打込みの際の拳の下がりで有ります。知り得た事を実践する難しさから中々抜け出せぬ彼であります。一人遣いの状態でも僅かに現れるその現象に指摘されねば気が付かぬ・・・これでは駄目であります。まして一人遣いの時に力みからくる拳の下がりが出る様では、人相手では全く通用するわけも有りません。駄目な物は駄目・・・自身で身に付ける気迫が必要であります。

竹刀を遣う特に左手のゴツゴツ感が拭えねば・・・柔らかな手の備えが常に体現出来ねば、得物は心地よく走ってくれません。

坐礼を行い、木刀による基本打込では特にその点を重点的に求めたのは言うまでも有りません。物を打つ・・・特に力みからくる拳の下がりは出やすい物です。軽やかな延び延びとした打ちを求めて、繰り返し繰り返し打込ませました。数本心地よい打ち込み音が道場に響いておりました。数限りなく打込みを繰り返し、兵法で遣える様にし、そして地稽古で遣えねば物の役にはたちません。目指すべきは一つであります。場に即応して使いこなす。

叱咤激励が効いたのか、兵法では合撃に良き手応えが出ておりました。二の斬りには一本・・・出来る確率を高めて行くしかありません。試合勢法では頭で考えて遣おうとする事でギクシャクした遣い方が目立ちました。まだまだ身に付いたとはとても言えぬ遣いっぷりでありました。覚えたつもりでは・・・何の役にもたちません。身に付くまで何度も繰り返すしか術は有りません。

真剣での抜刀では太刀筋正しく、振りぬく事を求めました。太刀筋が正しくとも鋭さ、冴えが無くては物の役にはたちません。斬り合い中でも遣える太刀筋を求めました。可成り心地よい刃音をたてておりました。

締めの稽古は、無論防具を着けての地稽古であります。雰囲気、基本打込は確かに様に成って来ております。しかしながら鉄壁の守りを備えた位(構え)から繰り出される攻め、其処からの打ちを次々と決められ・・・本日も成す術無しと言った小林君でありました。しかし稽古は打たれながら強く成る・・・これが真理であります。打たれながら何時の間にか自身が打たれた技を吸収する・・・写し取る・・・その為に師の位は、正しく攻め、打つのです。その意味では彼は着実に強くなっているのです。・・・しかしながら地稽古の中ほどで右足の指に僅かな違和感を覚えました。打込んだ瞬間に・・・恐らくお互いの足の指が衝突したのでしょう。稽古の間は痛みは全く感じませんので稽古を終えて座に就く時に床に点在する血痕に気が付き、足を確かめると血が滴っておりました。

小林君の親指の鋭利な刃物の様な爪でケガをした様でありました。彼の巻き爪と称する物には、過日二度ほどケガの原因と成りうるとその処置を強く注意しておりました。しかるに彼はそれを自身の巻き爪と称する言い訳で何の処置もせずに・・・遂には自身に害は無かったとは言え、人を傷つける所業に及びました。

その無神経さ、学び方の横着さ、守破離の守、習工錬の習の教えを今一度滾々と諭しました。この者の学習能力の低さは劣悪であります。自身の都合の良い事しか覚えようとしない・・・正しなさいと厳命されても意に添わぬ事は横着にも無視する、忘れる・・・外道の所業である。

久々の叱責に涙を流してうな垂れる小林君でありました。人に怪我を負わせねば性根が入らぬ、指摘された事も理解しようとしない・・・情けないにも程がある。

それ以外は良き稽古であっただけに・・・最後の最後に台無しである。

流した涙を決して無駄にするでない。

正伝柳生新陰流 広島柳生会