広島柳生会

正傳新陰流 広島柳生会

剣道の修業の一環として新陰流・制剛流抜刀術を伝承する広島柳生会の日常の稽古風景や出来事を掲載する。

3月最初の第一土曜日稽古会

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3月5日

令和四年3月5日、いよいよ3月が始まり春の訪れを感じるここ数日で有ります。6日で広島県に発令されておりましたまん延防止宣言も解除される事が決定しました。二年前からコロナ騒動が始まり、平生の道場使用が出来なくなった時に場としてお借りしておりましたこの社での稽古もこの日で一旦休止となります。感謝を込めてこの日一日の稽古を行わせて頂きました。

この日は、小林君と齋藤君両名が出向いて参りました。前回の不始末を座し神妙に詫びる小林君でありました。この日までにこの10年の数々の無作法を一つ残らず思い出し、自覚を促す事を命じておりました。生き方全てにおいてうわっ滑りをし、物事を深く考える事を苦手とし、億劫がり、同じ相手に対する態度を状況に応じて使い分ける許し難い横着さを何処まで自覚したのか・・・今度こそと淡い期待を込めて自戒の念に聴き入りました。今度こそ・・・今回迄は信じる事としました。傍で直立して聴き入る齋藤君でありました。人の振り見て我が振り直せ・・・でありましょう。

気を入れ直し、暫しの別れと成る社で一人遣いに精を出す三人でありました。二人の一人遣いの様子に一言添えて求める事の正しさを求めました。剣は何処までも自得で有ります。しかし求める物の正しさを知らねば求めようが有りません。正しさの自覚を何処までも謙虚になって求めるその姿勢を求めました。

単なる形のトレースでは駄目であります。無心に夢中に成って振り込む事での中での正しさであります。何処までも柔らかく、冴えのある打ちを求めて振り抜いて行く事でしか真の太刀筋は身に付きません。力みを捨て去るまで振り抜くしかありせん。行あるのみであります。下手な考え休むに似たりであります。

正面への坐礼を行い木刀での基本打込に精を出す三人で有りました。道場外の陽光と違い道場内の深とした冷気の中で、全身から湯気が立ち昇り額に汗する弟子達で有りました。

兵法では、基本打込で身に付けつつある打ちを表現するべく遣わせました。人を相手にすると僅かな力み、其処からくるブレ・・・人を相手にする難しさを感じながら基本打込と兵法を一つとするべく奮闘する二人でありました。

特に試合勢法中段では、次から次と速い拍子で展開する勢法に気が遅れ、拍子の淀みが出るたびに・・・厳しいし叱責を浴びせかけられる二人で有りました。頭で考えて対応しようとしても遅れるだけであります。地稽古の如く遣うばかりであります。その為に防具を着けての打合い、地稽古を遣っているのですから・・・基本打込、兵法、抜刀、地稽古を一つの物として遣うばかりであります。それぞれが別物と成っては、本末転倒であります。

真剣での抜刀では、基本刀法の際の刃音に冴えが出て来た二人で有りました。時として形にばかり囚われて鋭さを欠く際には・・・当然ながら活きた太刀筋を刃音に求める様に諭される二人で有りました。

暫しの間この場とのお暇と成ります稽古の締めは、防具を着けての地稽古でありました。二年に及ぶこの場での稽古を懐かしむ様に先ずは、基本打込を師相手に行う二人でありました。毎回確実に鋭さが増してきている二人であります。後は如何に一本に結び付けるか・・・そこが中々に難しい。打たれ続ける事の中から自得して行くしかありません。身に付けつつある基本刀法、基本打込を活かすヒントは全て形の中に地稽古の中にあります。奮闘せよ!

稽古を終えてこの二年の思いを込めて宮司様に感謝を伝え、暫しの暇乞いをし、社を後にしました。

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