広島柳生会

正傳新陰流 広島柳生会

剣道の修業の一環として新陰流・制剛流抜刀術を伝承する広島柳生会の日常の稽古風景や出来事を掲載する。

2月第四日曜日稽古会

令和六年2月25日、2月最後の日曜日稽古会を行いました。この日は新年稽古始が職務と季節病の為に延び延びになっていた小林君が出向いて参りました。全国を飛び回る彼の職務上已む終えぬ事ですが、大勢の人と接する機会の多い弊害は拭いきれません。そう言う意味では流行性の疾病はすべて受け入れてしまったここ数年であります。

この日も僅かながら喉の不調は残っておりました。しかし逸る気を抑えながらも先ずは、床の感触を楽しんでおりました。徐々に調子を上げて行こうとする職業病と言っても良い性癖は抜け切れていない様子でありました。兵法に暖気運転は必要ありません。大拍子で行う一人遣いでユッタリと遣いながらも気を張る・・・ユッタリと遣うと気が緩んでしまうでは・・・それは剣とは言えません。踊り、殺陣の類です。其処の処が・・・まだまだです。

少しず確かに上達して来ておりますが・・・根幹と成る理解を身に付ける難しさであります。剣の修行が一生と言われる所以です。払い揚げの太刀の手の内に言葉を添えて手本を示しておきました。

手の内が出来れば剣の修行は終了と言われておりますが・・・剣の修行におわりはありません。そういう意味では手の内は一生求めて行く物であります。千変万化する剣の手の内は、水の如く何処までも連れ従って行く感性と剣に全て委ねる事でしか身に付かぬ事です。生涯剣を振り抜いて求めて参ります。

坐礼でお年賀を手渡し、少し言葉を添えておきました。

木刀による基本打込・・・一人振り抜いた後は、打込む事が大切です。木刀と木刀が打合わさる音と手の内に残る感触に気を凝らし、正しい精密な太刀筋を求めて参ります。そして蟇肌竹刀での同じ行での感触の違い・・・木刀、竹刀、そして真剣での一見違う手の内の感触を一つの物とする修行を師弟同行で何処までも求めて参ります。

兵法では本伝の太刀を気一杯で共に遣い合いました。単なる形練習と成る事無く、真の形稽古を求めて。今回は、体を左右、中央に運ぶ体捌き、足捌きに言及しました。之を何気ない事と見過ごしては駄目です。体の運びは剣の根幹に関わります。正しく体を運べねば真の剣に成る筈もありません。常に気を配る処であります。

剣道形では刀法による突きの捌きを伝授しました。刀に備わった攻防の機能を知って・・・パッと見開いた瞳が印象的でした。伝える時期が来れば阿吽の呼吸で伝えます。その時でありました。

真剣での抜刀では、あくまでの両手太刀に成った際の左手主の事を意識させました。刀に嫌がられない操作を求めました。剣に使い手の我は許されません。

稽古の締めの防具を着けての打込及び地稽古では、回数を重ねる毎に強く、鋭くなってくる打込みに頼もしさを覚えました。今後は如何にそれを地稽古に活かすかです・・・これが大変難しい。

彼なりに地稽古では、元立の構えを崩そうとして竹刀を抑え様として来ました。何故にかその瞬間に打たれる事に四苦八苦しておりました。打たれながら知り、覚えて行く・・・何故に成す術無く打たれるのか・・・その答えは地稽古で求めて行くしか、自身で気が付くしか術はありません。そしてその答えは形稽古、兵法の中に教えがあります。形と地稽古は一つです。別物であっては意味がない。

良き一日の稽古会でありました。

日記

広島武徳会