広島柳生会

正傳新陰流 広島柳生会

剣道の修業の一環として新陰流・制剛流抜刀術を伝承する広島柳生会の日常の稽古風景や出来事を掲載する。

2月今年最初の西宮での高段者三人稽古会

令和六年2月28日、今年最初の西宮での高段者三人稽古会に出向きました。昨年後半より月一の稽古会が参加者の足の具合を考慮して今しばらくは二か月に一回としております。今年最初の高段者三人稽古会でありました。

朝自宅を出立して稽古が終了の5時過ぎまで心地よい晴天の日中でありました。

この三人稽古会も今回で六年目に突入しました。三年余りのコロナ禍の中でも何とか続けて来る事が出来ました。時間を懸けて取り組まねば判らぬ事がある・・・それをしみじみと知り得たこの五年間であった思う一同でありました。稽古の度に夫々が感じ、次への課題、想いを持ち、稽古の中で取組んで来た事(形稽古)が地稽古の技、打ちで体現されてくる・・・それも図らずに突如として現れる・・・有り難い事であります。

自身が想わずに打って、後から形の中の何の技であったかが自身の中から湧き上がってくる・・・感動以外の何物でもありません。剣は知識ではなく、稽古の行でしか成し得ない処であります。良き稽古相手あっての修行であります。

そんな中でもメンバーが夫々に自身の年齢を考慮に入れねば成らぬ時期に差し掛かってきました。しかしこれは我々だけの事では無く、生涯一修業者であり続ける剣道人にとっては永遠のテーマであります。

生涯若手を翻弄する事を宿命付けられている剣道人にとっては、年代に応じた稽古を自身の中で工夫し真の上達を続ける事は宿命であります。

形の途中で、突如として頭が真っ白に成り、立ち尽くす事四度・・・流石に認知症の心配をする最年長でありましたが・・・集中している形稽古の中では有る事です。只手順を追うだけのカタチ稽古ではありませんので、それとなく慰めておきました。

近代の剣聖と慕われた故持田先生(範士十段)が年齢に応じたご自身の稽古における取組を書き残されております。60歳を超えると体の衰えを補うために(心を働かす心の修行に入った)70歳を超えると(心を動かさぬ修行に入り・・・不動心)80歳を超えると(心に雑念を入れぬ修行に至った)・・・。

先人が示してくれた修行の過程を個々に応じて歩んで行きたいと念じております。

剣道形においては、夫々が前回の反省を心に留め置き、遣い合いました。弟先生とのそれでは、小生が仕太刀を遣う際に、前回は打太刀を信じすぎて小太刀の際に相手の切っ先が拳に触れた(相手太刀筋の乱れ故に)事を念頭に(見の目を少し強く遣いました。やはり正しい見の目あっての観の目であります。剣の世界では観の目強くと言われておりますが・・・明らかに理兵法に走り過ぎである。

地稽古では、少しお相手の体調を考慮しすぎて、体の出を控え過ぎたと・・・帰りの車中では想いが頭の中を駆け巡っておりました。拡大の気の攻めは、お兄さん先生が稽古後の反省会で述べられていた様に(まったく崩れませんね)という感想にある様に、良しとしてよいと思いますが、それならば何故に面に渡れなかったかと思いを巡らせば・・・機と感じる捨て身の出が不足していた・・・との想いに辿り着きました。稽古では、一本は許さぬ気は必要でありましょう。稽古に出て来てる限り、相手の体調に配慮しすぎは・・・無用でしょう。

一本だけは、弾き飛ばしても、突き倒しても・・・二本目は必要無しとしても・・・。

次は、四月の予定であります。

日記

広島武徳会