広島柳生会

正傳新陰流 広島柳生会

剣道の修業の一環として新陰流・制剛流抜刀術を伝承する広島柳生会の日常の稽古風景や出来事を掲載する。

3月第一日曜日稽古会

令和六年3月3日、いよいよ年度の最終月となりました。この日は大阪より野原君が激務の間隙を縫って出向いて参りました。彼に取っては新年が始まって早くも三か月目であますが、この日が広島での稽古始めでありました。

定時正午に道場に到着し、挨拶もそこそこに先ずは一人遣いに精を出しておりました。平素はマンションの敷地内での一人稽古しか儘ならぬようですので、床板の感触を楽しむ様に黙々と道場の端から端までを遣って振り込んでおりました。

余人を交えずの直伝稽古でありますので、気に成る太刀筋の腕の捌きに一言添えて置きました。悪癖と成らぬ前に修正を加えて置きました。一人では判らぬ事があります。そこを逃さず正しておきます。

坐礼の際に嚴島神社での新年のお祓いの際にもとめていた破魔矢とお年賀を手渡し、言葉を添えておきました。

宮島嚴島神社奉納古武道演武大会まで丁度三か月です。気を引き締めて稽古に励み、大会に向けて気を高めて行って欲しいと願っております。

木刀による打込み稽古では、打込みの際に締めではなく握り込む癖がまだまだ出ておりました。鋭く軽やかな打込みを求めました。何本か軽やかな音を発しておりました。素振りでは出来ている事が、実際に打つと言う事に成ると思わず握ると言うリキミがでてします。それは人に向かうと更に強くなります。そこを克服するのが稽古です。人を相手にする稽古でしか克服は出来ません。

兵法では、一瞬頭が白く成り、呆然と立ち尽くす事がありました。彼は之までにも本番でも何度かこの様な状態に陥っておりました。自身で克服するしか術はありません。単なる手順を追っている訳では決してありませんので形稽古の中ではあり得る事ですが、そこからリカバリーするのも自身の責任であります。気力であります。何時までも打太刀に何とかして貰おうとしては、一人前とは言えません。そろそろ一人前と成って貰わねば困ります。

伝授の途中の剣道形もこの日で太刀七本を全て伝授しました。此処からが真の剣道形の稽古と成ります。一日一回の稽古を数多く重ねて参ります。数を打たねば物には成りません。

真剣での抜刀を抜き合い、最後に防具を着けての地稽古を行いました。何時もより長い時間と成りました地稽古では、彼の現在の問題点が如実に現れました。人を相手に打ち合いと成ると・・・打ではなく叩きと成って仕舞います。それは手の内の操作は無論ですが、人から一本を取ると言う事への志の低さが原因です。

真の一本とはどの様な事と捉えるのか・・・我をわすれて無神経に竹刀を振り回し、其処ら辺りを叩きに来る彼が真に理解するには、まだまだ可成りの時間を要する事でしょう。完膚なきまでに打ち取られ、稽古後の言葉としても(何たる素性の悪い剣か)(まさか君は他所に稽古に行っているのではなかろうな)と言葉を投げつけられ・・・呆然とする彼でありました。無論小生の目を盗んで他所に行っている筈もありませんが・・・万一そうであれば即刻破門は明らかな事であります。
平素の教えを無視している筈でもなく、地稽古と成ると別物として遣ってしまう・・・人を相手にする難しさから我を忘れてします・・・克服すべき近々の課題でありますし、打つと言う事に対する自覚の欠如であります。今一度今までの教えを反芻し、打つと言う事は同様な事かを確りと決定(けつじょう)せねばなりません。そして師相手に表現するしか彼に残された道はありません。

日記

広島武徳会