広島柳生会

正傳新陰流 広島柳生会

剣道の修業の一環として新陰流・制剛流抜刀術を伝承する広島柳生会の日常の稽古風景や出来事を掲載する。

2月三度目の日曜稽古会

金曜日からの三連続稽古会の締めとなる日曜稽古会を行いました。昨日の今日ですから流石に皆気を配った礼を行っておりました。しかしながらこの状態を常に日々新なる事として変らず続けると言う事が大切です。変に馴れ、だれて端折るなど断じて有ってはなりません。常に新鮮な気持ちを持ち続けるしかこの道の修行は在りえません。


基本稽古もそろそろ馴らしの段階から練ると言う事も要求してきましたので可也苦しんできていますが、その内にこの苦しさの中に得がたい充実感を感じてくるはずです。力を入れようにも入らない状態に至った時に表れる自身の真に虚脱した心身の遣い様を自得出来る様にこれからも益々厳しく追い込んで行きます。


兵法になると基本稽古で有る程度身に付けつつ有る事が崩れる傾向が多々見受けられます。これは相手がいる難しさでもありますが、それ以上に分を弁えず形稽古の本分を理解しない邪念の表れでも有ります。元立ち(打太刀)を相手にして何を勘違いしているのか、打ってやろうとしている戯け者がいます。真の打太刀は使太刀を打ってやろうと思う事など有り得ません。正しく導いてやろう、立派に遣える様に少しでも気持ちよく遣わせてやりたと考え導いてゆくのです。その様に導く事によって自身も先人が英知を傾け作り残してくれたこの宝の中に使太刀と彼我一体となり浸り、新陰流(剣道)その物に成りきり、自身の修行とするのです。そのような打太刀に対し、導かれるのではなく我で俺が俺がと遣うなど、とても剣の修行とはいえません。しっかりとまずは呼吸を打太刀の導きにあわせ、気に呼応し心気ともにしっかり遣い合う事です。さすれば技も立派になり我執も自然に消え去るはずです。常に真摯に謙虚に自分と向き合う事です。


見取り稽古と言う言葉は知ってはいても如何も理解していない、身についていないと言う事が目に付きます。道場は一人稽古の場では有りません。一人稽古は道場外で行ってくるべきものです。道場に入ったら自身の稽古のとき以外は人の稽古をまず真摯に観る事に専念するのです。観てその者の良き所を観て取るのです。過去にも自身の稽古以外は他の者の稽古など観もせずに隅でドッスンバッタン喧しい音を無神経に立てていた者がいましたが、所詮お引取り願う事に成ったのは周知の事です。延春先生が言われていた(ガツガツするな)その次に続く(カスを掴むぞ)と言う言葉を良く噛み締めて頂きたい。


次回土曜日には新潟から野原君が出稽古に参ります。彼には今回打太刀を充分に行ってもらう予定です。全員でしっかり懸かって貰いますので心してお集まり下さい。