広島柳生会

正傳新陰流 広島柳生会

剣道の修業の一環として新陰流・制剛流抜刀術を伝承する広島柳生会の日常の稽古風景や出来事を掲載する。

剣友の逝去を悼む

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三月十一日、東北大震災のちょうど一年目にあたるその日に剣友が静かに旅立って逝きました。延春先生から広島の地に新陰流の種を蒔き、育てて行って欲しいとの言を頂き、先ずは一人稽古の道場として立ち上げたのが現在の道場で有ります。時は平成12年十月でありました。とりあえずは新陰流の一人稽古の道場として遣うつもりで有りましたが、平成五年から天満小学校で剣道の稽古を一緒に行っておりました彼が道場があります団地に住んでいたと言う事もありますが、何かに導かれるように通って来るようになりました。天満小学校の稽古会に小生が行くように成りましてから、それまでは地稽古のみであったその稽古会に地稽古を行う前に先ず形稽古を取り入れる事を勧めましたところ、熱心に形に取り組むようになった一人が彼で有りました。当時彼はまだ三段でありました。子供さんが剣道を始めた事をきっかけ、に仲良し三人組の父親で同じ時期に剣道を始め、子供さんが剣道からはなれたその時期にもその三人組で剣道を楽しんでおりました。


その当時小生はすでに七段になっており彼としては形の稽古をしてもらえないと思っていたようですが、ある時小生から稽古を誘ったところ恐縮しながらも喜々として取組んでおりました。それからは機会を見つけては形稽古を求めて来るようになりました。勿論地稽古は毎回、どんなに順番が後でも懸かってきておりました。そんな彼との五月での稽古が始まりました。剣道の稽古は原則金曜日だけとして、時間がくると先ずは剣道形の表裏20本を打ちその後地稽古を心行くまで行いました。数年は剣道は彼とだけの稽古を行いました。その後二人稽古の噂を聞きつけて何人かが稽古に来るようになりましたが最初に形を打ち地稽古をするのも彼が最初で有りました。


その彼の異変に気がついたのも道場での形稽古の最中でありました。その気の異常な乱れ、体捌きの揺らぎ。ただならぬ事が彼の中で起きていると感じ、直ちに稽古を中止し、精密検査を受けるように厳命到しました。平成18年の五月の事で有りました。検査の結果は脳腫瘍・・・・・それも手術不可能と言う最悪の物でありました。直ちに市内の病院に入院し、抗癌剤の投与を受けることとなりました。そこからの彼の脳腫瘍との戦いは過酷を極めた物で有りました。一旦は腫瘍が消えるのですが、半年もすると又出てくるのです。その度毎に薬は強くなり、放射線治療も重なり、腫瘍を叩きながらも静かに彼自身おも蝕んでゆきました。そんな中、彼は自宅に帰っているときには何事もないように時間が来れば道場に出向いて参り、稽古を行い何事も無きように帰って行きました。六年近くに及ぶ抗癌剤の投与や放射線の治療は彼の体力を次第に奪ってゆき、足腰が次第に弱ってまいりました。そうなっても彼は稽古に出向いてきて形稽古だけでもと所望して、形を打って帰って行く日々でありました。その形稽古も出来なくなった半年後、彼は静かに息を引き取りました。稽古の最中に連絡が入り、稽古後ご縁のある弟子を連れ立って自宅に駆けつけました。穏やかな眠るような顔で永き戦いを終えたその身を横たえておりました。父が逝き母が逝き、もう涙を流す事などないと思っていたのですが、人目をはばかることなく男泣きに泣きました。年上の彼が先生と常に呼んでくれましたが、病になってからの彼の戦いそしてその間の剣道への取組みは到底真似できる物では有りません。愚痴一つこぼさず淡々と病と戦い、時間が来れば何事も無かった様に道場に出向いて来て、出来る稽古を行って帰ってゆく。彼の姿は小生に取りまして正しく先生でありました。


得難き剣友の死は小生を打ちのめしました。しかし何時までも沈んでばかりもおれません。四月二十八日が四十九日の忌明けで有ります。奥様から忌明けの知らせを受けましたのが写真の平安神宮の境内でありました。この地で剣友の死の悲しみから決別し、彼との稽古の日々を噛み締めながら次に進んでゆく事を決定(けつじょう)いたしました。